#スバコミ会員の皆様
こんにちは!#スバコミ事務局です!
今回は、hachetteさんの週刊スバルインプレッサをつくるを#スバコミ事務局で購入いたしました!
(画像出典:http://hcj.jp/imp/home.htmlより)
これから、実際に毎週作っていきながらその様子を皆様にレビューしつつ
#スバコミ事務局としてもさらにスバルのこと・インプレッサのことも学んでいこうと思っております!
皆様!乞うご期待!!!
#スバコミ会員の皆様
こんにちは!#スバコミ事務局です!
(画像出典:http://hcj.jp/imp/home.htmlより)
これから、実際に毎週作っていきながらその様子を皆様にレビューしつつ
#スバコミ事務局としてもさらにスバルのこと・インプレッサのことも学んでいこうと思っております!
皆様!乞うご期待!!!
みなさん!こんにちは!
#スバコミ事務局です。
さてさて、2017年全日本ラリー選手権が遂に2月より始まり、WRCも地上波放送が開始され盛り上がっている中、先日のオートサロンでもモータースポーツ参戦体制の発表がありました。
#スバコミでも、以前より新城ラリー取材などに行くなどモータースポーツやラリーに注目していただけあって今回の企画をするに至りました
さぁ、今回のパーツは
となっております。
では、さっそく作っていきましょう!
自称手先は器用の事務局員A
まずはフロントバンパーの制作に手をかけ、すらすらと製作を進めていきます。
なんなく出来上がっていく、フロントバンパーを脇目に自分の手先の器用さに自信を高める事務局員A。
これも、素晴らしいスピードで仕上げていく、事務局員A。
その手先は鍵盤をはじくピアニストの如くなめらかにドライバーを駆使しています。
そして、タイヤホイールも驚くべきスピードで仕上がり、見事なまでのドライバーの扱いで出来上がったタイヤはもう今にも走り出すかのような出来栄え。
そんなこんなで完成したvol.01~vol.3のすべてのパーツ。
これらが最終的にどうなるのか?今後のレポートにはぜひ期待してください!
さて、この【公式】スバル インプレッサをつくる!で学ぶではただ作るだけではなく、事務局員がスバルについてもっと理解を深めるために学ぶことも目標になっております。
もちろんWRCの栄光は知っていたものの、vol.01に書いてあった市販車の骨格をほとんど変えることなく、あの走りをしていたことに一番の驚きを覚えました。
さらには、攻めるための低重心とマスの集中の為に無駄なものを徹底的に省き、ドライバー用のモニターもセンター低く設置するその徹底ぶりには脱帽いたしました。
実際の走りはまだまだ、小さかった私はその目でみることはなかったのですが、想像するだけでもわくわくしてきます。
どしどし、
数多あるWRCのエピソードや、昔のラリージャパンなどの思い出、IMPREZA WRC2013の豆知識などの投稿をお待ちしております。
スバコミ会員の皆様
こんばんは!
#スバコミ事務局です!
やってきました!
さてさて、今週はなにをつくるのか?事務局員Aも楽しみにしておりました!
しかしながら………なんと。。。
驚きとショックを隠し切れない事務局員Aですが、
そうも言ってられないので、今回の投稿は明日より開催するJRCに関して投稿します。
注目のRd1は、2/2~5の間で聖地群馬で開催されます
群馬県北西部に位置し、高原キャベツの出荷量で日本一の嬬恋村が舞台、今回で11回目の開催となります。
特徴といえば、なんといっても雪と氷の路面を走行することではないでしょうか?
どんな気象条件でも開催されるのがラリーの特徴ですが、日本ではもうウィンターラリーは数少ないものとなっているとか…
<コース>
嬬恋村には、冬季間多くの閉鎖された雪上路があります。
これらを有効利用し、冬季にラリーを開催することにより、多くの来村者を迎え地域の活性化に取組んでいます。
同時に、より多くの地元住民の方々にモータースポーツを理解していただきたいと考え、
当ラリーは2007年に「BICC Snow & Ice Rally 2007」として初開催されました。
そこから、継続的に開催することにより、国内でも数少ない国際各式のイベントへと成長を遂げているとか。
などなど、全11ラウンドになります。
最後はもちろん、昨年取材にいった新城ラリーですね!
新城ラリー
地上波でも放送されるとかで、もう目が離せませんね!
それでは、今日はここまで!
(もっとラリーに関して勉強しなれば!)
みなさん
こんばんは!#スバコミ事務局です!
やってきました第3週目の
どれくらいの人がみているのかわかりませんが、欠かさず見るよ!って人がいると信じて
しっかり定期投稿していきますね( `ー´)ノ
さてさて、ちなみに先週はなぜかパーツが届いていないと嘆いておりましたが理由が判明いたしました。
なんと。定期購読した場合、3号~10号は隔週で!しかも11号以降は月1回の配送になるということが分かりました。
まぁ、そんなことはさておいて届いた4号・5号はこんな感じです。
(くっつけた感満載ですみません。)
になっております( `ー´)ノ
作業中の風景はこんな感じ!
(だんだん複雑さがupしてきたので、思いのほか時間がかかります!)
だんだんとクルマに近づいてきた感じがあります。
ますます、毎週が楽しみになってきますね!
さて、今回4号、5号に掲載されていた内容は、
に関して書かれてありました。
なんとも、初耳の言葉の応酬で理解にまだまだ時間がかかります。
次回の投稿くらいで、ここまで勉強したことを簡単にまとめられればと思っております!
暖かい目で見守っていただけますと幸いです。
それでは今週はここまで!
(ちなみに、先週のラリーの結果は→スバルニュース速報にてご紹介しております!)
こんにちは。スバコミ事務局のみなさん。
それは私です(笑)。
スバルのラリー活動なら、1980年のチームスバルのサファリラリー初参戦から2008年のWRC撤退まで追っ掛けてきましたよ。1960年代の日本アルペンラリーや、1970年代のサザンクロスラリーの時代は、まだ生まれていないか、物心が付いておりませんでしたので、資料から語れるだけですけどね。
貧乏暇なしであまり時間がないので、スバコミでは不定期に模型・ミニカーなど にずっと投稿していますが、何かお役に立てるようなことがあれば、ぜひお気軽に何なりと聞いてみて下さい。
それは私です(笑)。
スバルのラリー活動なら、1980年のチームスバルのサファリラリー初参戦から2008年のWRC撤退まで追っ掛けてきましたよ。1960年代の日本アルペンラリーや、1970年代のサザンクロスラリーの時代は、まだ生まれていないか、物心が付いておりませんでしたので、資料から語れるだけですけどね。
貧乏暇なしであまり時間がないので、スバコミでは不定期に模型・ミニカーなど にずっと投稿していますが、何かお役に立てるようなことがあれば、ぜひお気軽に何なりと聞いてみて下さい。
a151300gさん
#スバコミ事務局です。
お申し出ありがとうございます!
事務局メンバーは90年代生まれもいて、ラリーも模型づくりも不勉強ですが、作って学んでいく中で、パーツやレースに関するストーリーなどがあれば、この掲示板で@a151300g他みなさまにご質問させていただければと思っています。
もし、ご存知のラリー秘話や体験談などがあれば、是非お聞かせいただきたいです。
みなさん
こんばんは!
#スバコミ事務局です。
今回の投稿は、創刊号に書かれている情報をまずは投稿していきます!
そもそも、事務局が今回作成しているものはみなさんもよくご存知である
スバル インプレッサ WRC2003の1/8サイズです。
《1/8 スケールモデル 完成サイズ》
全長 55.1cm
全幅 22.1cm
全高 17.3cm
材質 マルチマテリアル(金属、ABS樹脂、軟質樹脂など)
(イメージはこんな感じ)
他にも、実際にこの1/8サイズのものが完成したら
実際にヘッドライトが点いたり、窓が開閉したり、いろいろな機能が搭載されています。
アクセルを踏むと、大迫力のエンジン音が聞けるのだとか…
事務局員Aは、当時のエンジン音を聞いたことがないので完成が待ち遠しいです。
それ以外にもストーリーとして掲載されているのは
・ラリーカーのメカニズム
・WRCメカニズム
・スバル名車名鑑
などなど、読み応えがある内容ばかりでございます!
本来は、詳細の投稿をさせていただきたいのですがTwitterでも、
との声があったので、ネタバレにならない為に我慢しております…
なにかいいテーマないですかね?
ラリーを勉強するならこれだけは知っておくべきだ!
みたいなことがあれば教えてください!
こんにちは。スバコミ事務局の皆さん。
車は走るものですから、走る姿を見るのが何といっても一番です。そこで、動画共有サイトから何本か動画を紹介したいと思います。
まずは、今回のアシェットのインプレッサWRC2003から。
トミ・マキネンが引退したWRC2003年シーズン終了後、大阪・舞洲で行われたインプレッサスポーツミーティングのために来日したインプレッサWRC2003とトミ・マキネンが、ホットバージョンの企画で、ウェット&スノーの難しいコンディションの群馬サイクルセンターを走行。
トミマキネン乱入!! 峠最強伝説 Part1【Best MOTORing】2004
前年、シーズン終了後、やはりインプレッサスポーツミーティングのために来日したインプレッサWRC2002を、ホットバージョンの企画で新井敏弘さんが群馬サイクルセンターを走行。
インプレッサ 2003WRCマシン対ノーマル 峠バトル!!【Best MOTORing】
FIA公式動画として、レガシィRS からインプレッサWRC2006までのスバルWRCマシンの移り変わりを5分にまとめた一本。
FIA World Rally Championship: WRC History "Greatest Cars - SUBARU Impreza"
最後に私が日常的に見ているamjayes2さんの動画シリーズの中から、1997~2000年シーズンのインプレッサWRCのエンジン音をメインに編集したコンピレーション「with Pure Engine Sound」シリーズの中の一本。
Best of Subaru Impreza WRC97-2000 tarmac action - with pure engine sounds
その他にも数え切れないほどスバルのWRC活動の足跡を動画で辿ることができますが、著作権の問題で削除されるパターンがほとんどなので、削除される心配のない公式動画4本、とりあえずご紹介しておきますね。
スバコミ事務局さん今晩わぁ~。
私この掲示板(スバルのモータースポーツを語ろうでも?)で気になった事があるのです、
それは皆さんスバルのDNAはラリーだって言って居るにも拘わらず
殆ど、スバルのラリーの歴史等を語らない事です。
私より知ってる皆さん沢山いると思いますが
スバルが全日本ラリー選手権でシリーズチャンピオンを獲得した年ってご存知ですか?
今から30年前の1986年です。
ちなみに綾部さんご本人と、BICCスノーラリーでお会いしてお話したことがあります、
「初めて、スバルに初冠際をもたらしたの俺だよって」笑いながらお話していました。
当時のオートテクニックです。(現在廃刊)
車は走るものですから、走る姿を見るのが何といっても一番です。そこで、動画共有サイトから何本か動画を紹介したいと思います。
まずは、今回のアシェットのインプレッサWRC2003から。
トミ・マキネンが引退したWRC2003年シーズン終了後、大阪・舞洲で行われたインプレッサスポーツミーティングのために来日したインプレッサWRC2003とトミ・マキネンが、ホットバージョンの企画で、ウェット&スノーの難しいコンディションの群馬サイクルセンターを走行。
トミマキネン乱入!! 峠最強伝説 Part1【Best MOTORing】2004前年、シーズン終了後、やはりインプレッサスポーツミーティングのために来日したインプレッサWRC2002を、ホットバージョンの企画で新井敏弘さんが群馬サイクルセンターを走行。
インプレッサ 2003WRCマシン対ノーマル 峠バトル!!【Best MOTORing】FIA公式動画として、レガシィRS からインプレッサWRC2006までのスバルWRCマシンの移り変わりを5分にまとめた一本。
FIA World Rally Championship: WRC History "Greatest Cars - SUBARU Impreza"最後に私が日常的に見ているamjayes2さんの動画シリーズの中から、1997~2000年シーズンのインプレッサWRCのエンジン音をメインに編集したコンピレーション「with Pure Engine Sound」シリーズの中の一本。
Best of Subaru Impreza WRC97-2000 tarmac action - with pure engine soundsその他にも数え切れないほどスバルのWRC活動の足跡を動画で辿ることができますが、著作権の問題で削除されるパターンがほとんどなので、削除される心配のない公式動画4本、とりあえずご紹介しておきますね。
a151300gさん
わー色々と早速ありがとうございます。
#スバコミ事務局です!
すべて拝見させていただきますね!
すみません、圧巻でした。正直想像以上にハードなレースなんですね。
ただ、それ以上に「わぉ!」と素直に声が出てしまうくらい迫力がありますね!
これは、ファンになるはずです。
みなさん!!
こんばんは!#スバコミ事務局です。
今週届いたのはこちら!
「左前輪まわりを組み立てる!」
・2003年モデルへの変更点-2
・リアサスペンション
・2台共にリタイアとなった2003年の開幕戦
「左前輪を取り付ける!」
・エンジン搭載位置の工夫
・ブレーキシステム
・スバル名車図鑑『スバル インプレッサ WRX STI(初代)』
などなど、勉強すべき項目が一気に増えました!
頑張らねばいけませんね!!
前回までに右前輪を作成していたので、すらすらと作業が進みます。
そうなんです( ゚Д゚)
どのタイミングかわかりませんが、大事なパーツが折れてしまっております。
愕然としました。
なんとかせねば…なんとかします。
来週までには、なんとかするので!今日はここまで。。。
みなさん!
こんばんは!
先週パーツが折れるというアクシデントも発生しましたが、すぐに購入し
無事ここまで完成いたしました。
さぁ次は、どこのパーツが来るのか楽しみです。
スバルワールドラリーチームがWRCに参戦したのは1990年。
初代のスバル、レガシィは運動性能が優れていたものの、なかなか勝利に結びつかなかったという。
そこで、スバルは1992年にひとまわり小柄なボディに搭載したインプレッサ WRXを発表した!
さぁ、インプレッサWRCで優勝を目指すのかと思いきや……1993年シーズンに持ち込んだのは
なんとレガシィが優勝するまでは、インプレッサを出さないと公言したのだとか(*_*;
その後、当時ドライバーをしていたイギリス人ドライバーのマクレーが得意とするニュージーランド・ラリーで最初で最後の優勝を迎え、レガシィは引退。
ようやく、インプレッサが1995年にデビューし初優勝したとのこと。
みなさんは知っていましたでしょうか?
逆にさらに詳しいことまでご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
ぜひ、なにかありましたらコメントを( `ー´)ノ
それでは!
1993年 WRC 第8戦 ラリー オブ ニュージーランド というお題なので、まずはなにはなくとも、その ラリー オブ ニュージーランド 優勝の瞬間から。
当時のSTIの広報誌「BOXER SOUND」No.18の冒頭見開きです。ゴールランプに上がって、ボンネットの上でシャンパンファイトに興じ始めたC・マクレーとD・リンガー。リンガーがちょっと「おっとっと・・・」となっていますが、この時、コリンのサイドブレーキの引きが甘く、ユルユルとレガシィが動き始めてしまい、慌てて周りの競技関係者がシャンパイファイトが終わるまで、レガシィが動かないように引っ張っていたというエピソードが残っています。
私は福岡在住で、当時、福岡スバルのショールームが福岡・天神の商業施設ビルの6Fにあって、いつも新型車が発売されるとカタログを頂きに行っていましたが、このBOXER SOUND No.18のこのカットを見た瞬間、通路を挟んでエスカレーターがすぐそばにあったのですが、そこで体から力が抜けて崩れ落ち、涙が溢れて頭の中が真っ白になってしまい、通りがかりの人やその様子を見て駆け寄ってきたショールームの女性から「大丈夫ですか?」「大丈夫ですか?」と声を掛けて頂き、体を支えられて、5分ぐらいして、人垣の中でようやく立ち上がることができたことを今でも鮮やかに思い出します。
せっかくの機会なので、スバルのWRC参戦までのプロローグを書き記しておきたいと思います。レガシィのWRCの初戦は、1990年WRC第4戦 サファリラリー でしたが、それはスバルのWRC初戦ではなく、特にサファリラリーは1980年からチームスバルとして、1986年からは富士重工業本体によるエントリー、つまり事実上のワークスでの参戦をレオーネで続けていました。そのあたりの経緯は、BOXER SOUNDの前身、「SPECIAL STAGE 」で辿ることができます。車両はオヤブンこと、当時の富士重工業 実験課のボス、小関典幸氏を中心とした旧チームスバルを母体とする群馬チームが用意したもの。一方、WRCヨーロッパラウンドは、皆さんご存知のイギリスのレーシングコンダクター、プロドライブが車両製作と現場運営、エンジンは、STIが各戦にエンジニアを帯同させ、現場でのデータを持ち帰って、三鷹でデベロップメントしてプロドライブに送るという形態で、まだフル参戦ではなかったからこそできた開発プロセスでした。ちなみにWRCに関するFIAへのホモロゲーション申請は、当時はまだSTIではなく、小関氏を中心とした群馬が行っていました。
STIとプロドライブの初めての邂逅は、1988年4月のSTI設立直後、1988年 第36回サファリラリー の視察に訪れたSTI初代社長 久世隆一郎氏が、当時のスバルサファリラリーチーム監督だった高岡祥郎氏から、当時、FIAの競技委員を務めていたジョナサン・アシュマン氏 を紹介され、そのアシュマン氏がプロドライブを推薦したことに遡ります。アシュマン氏は1984年サファリラリー にチームスバルからレオーネ4WDRX で出場しており、小関氏、高岡氏とは旧知の仲でした。1988年サファリラリー終了後、久世氏はすぐに渡英。プロドライブ代表であるデビッド・リチャーズ氏と会談し、施設を見学。富士重工業本社へ報告後、2008年のスバルのWRC撤退まで続く、長い二人三脚が始まりました。とはいえ、この時点では、新たなWRC参戦車両となる新型車レガシィ発売のまだ半年前で、初代レガシィの生産が立ち上がった1988年12月にプロドライブにホワイトボディがふたつ送られ、WRC車両用のボディの構造解析と開発が本格的にスタートしました。プロドライブについてはこちら
1989年を通じてプロドライブで精力的に開発作業が進められ、1989年10月には、当時、WRC最多勝だった19勝を誇るマルク・アレンとのドライバー契約を発表 。1989年11月24日にプロドライブ製1号車がテストを開始 。この時点で本戦用エンジンはまだSTIからは届いておらず、市販車+αのスペックでした。年明けにSTI製本戦用エンジンがプロドライブに到着。3月には、ジュネーブモーターショーへの出品と、南フランス・コートダジュールでの、デビュー戦となる、6月の1990年 WRC第6戦 アクロポリスラリーに向けて本格的なテストが始まりました。
群馬チームの1990年 WRC第4戦 サファリラリー への出場は、こうしたプロドライブによるWRC車両開発とは全く別に、同じ時系列で進められていました。そのレガシィRSのサファリデビューはほろ苦いものでした。デビューウィンを狙ったGr.A仕様5台のうち、過酷な4000㎞を走り抜いて生還したのは5位に入賞したJ.H.ヘイズの一台のみでした。しかし、P・ジルのGr.Nが総合8位で生還。サファリ史上初のGr.N車としての完走を果たし、以来、スバルはサファリのGr.Nを8連覇することになりました。
一方で、6月のプロドライブレガシィのデビュー戦であるアクロポリスラリーでは、SS1でいきなりファステストタイムを刻むものの、その後は新型車にありがちなマイナートラブルのために順位を落とし、3日目に6位を走行中にエンジントラブルのためにリタイヤ。この年は、8月の1000湖ラリーで殊勲の表彰台目前の4位。10月のターマックとグラベルが混在するサンレモラリーでは2台ともリタイヤ。最終戦RACラリーでは、F1ドライバー、デレック・ワーウィックを迎えた2台体制で参戦(本来はポッサム・ボーンがセカンドドライバーを務める予定だったものの、左ハンドル車にポッサムがまだ不慣れだったため流れてしまった)し、2台ともリタイヤという結果に終わりました。アジア・オセアニアではP・ボーンが群馬製レガシィRSでラリーオブニュージーランドを5位、ラリーオーストラリアを殊勲の4位を飾りました。
それとは別に、デビッド・リチャーズの肝煎りで、イギリス国内選手権を戦う、プロドライブでエンジンもプリペアされたレガシィRSに新人を乗せることが明らかになりました。彼の名はコリン・マクレー 。当時21歳の新進気鋭の若手ドライバーで、イギリス国内ラリー選手権を三度制したジミー・マクレーの長男で、弟アリスターもラリードライバーというラリー一家の出身。フォードの育成ドライバーとしてキャリアを積み、ここ一発の速さは当時から文字通り「抜群」でしたが、クラッシュが多く、フォードチームの精神分析テストでは、「無闇にリスクを冒したがる性格で、ラリードライバーとして大成することはない」と烙印を押されたほどの荒馬でした。
この年のイギリス国内選手権をコリンは5戦4勝で制し、同時にチームのWRC参戦にも帯同し、WRCドライバーとしての貴重な経験を積んでいくことになります。
1991年も引き続き、M・アレン、F・シャトリオの2台体制で、スウェディッシュ、ポルトガル、コルス、アクロポリス、ニュージーランド、1000湖、オーストラリア、RACの9戦に出場。
この年の初戦となるスウェディッシュラリーで、早くもアレンが表彰台に上る3位という成績を残しましたが、まだEJ20のトラブルシューティングも完全ではなく、ライバルに対して若干出力で劣っていたこともあって、度々アレンは「ノーパワー」、「ノーエンジン」というエンジンに対する不満を口にするようになります。STI製本戦エンジンがエンジニアの報告を入れた改良を施して、日本からはるばる送られるというプロセスのために、開発スピードの遅さも槍玉に上がりました。完走できれば4位か5位というのがこの当時のレガシィRSの定位置になっていて、それは参戦2年目であることを考えれば、今から思えば十分称賛に値するリザルトだったとは思えるのですが、まあなにしろ、そんな成績では、富士重工業、STI、プロドライブ、ドライバー、チーム、そして我々スバリストの誰も到底満足などできる訳がありませんでした。それほどレガシィに寄せた想いは、最初から大きなものだったのです。そして、最終戦RACを前に、2年間、レガシィRSをここまで育て上げてくれたM・アレンがトヨタへの移籍を発表。最終戦RACは、そのM・アレン、そして、1992年シーズンを戦うアリ・バタネン、1991年もイギリス国内選手権を連覇し、ついにWRCへの切符を手に入れたC・マクレーの豪華な3台体制で臨むことになりました。
RACは、序盤からアレンとコリンの凄まじいトップタイム奪取合戦から幕を開け、ライバルに圧倒的なアドバンテージを築いていきます。残念ながら、アレン、コリンともに第3レグのキールダーのステージでリタイヤ。最終的にはバタネンが生還して5位という結果よりも、グラベルのスプリントでは、もはやレガシィが最速であることを強く印象付けたラリーでした。
明けて1992年、効果的な開発のために参戦イベントを6戦に絞り、例年スバルの初戦となっていたスウェディッシュで、コリンが地元チームトヨタスウェーデン(TTS)のM・ヨンソンの駆るST165ワークスセリカに対して序盤から一歩も引かない激しい優勝争いの末に2位に入賞。
続くアクロポリスでも、SS1からスバルの2台がトップタイムを連発して後続を引き離して圧倒的なリードを築くものの、マイナートラブルでコリンが4位、クラッシュでアリがリタイヤ。この時アリが「我々はBチームではない」という言葉を残しています。ニュージーランドでは2台ともエンジントラブルでリタイヤ。1000湖では、アリが激しいトップ争いの末に4位。ラリー前にチーム代表のデビッド・リチャードから、「スペアボディはいくらでも用意しているから全開で行け」と言われたというコリンは4回とも5回ともいわれる激しいコースオフを繰り返して、もはや原型を留めないほど変わり果てた姿になったレガシィを、メカニックの懸命の修復でゴールランプに導いて8位。
オーストラリアはコリンがイギリス選手権出場のため欠場。代わってポッサム・ボーンがセカンドドライバーを務めて6位。最終戦RACは、コリンが序盤から圧巻の速さでラリーをリードするものの、コースオフによりポジションを下げて6位。アリが2位と、レガシィはグラベルでは圧倒的な速さから「グラベル最速マシン」の称号を欲しいままにしていながら、まあシーズンが終わってみれば「まだ勝てない」というフラストレーションが募る一年でした。
そして、RACラリー終了後、1990年のWRC本格参戦開始から永らくメインスポンサーがいなかったスバルに、BAT(ブリティッシュアメリカンタバコ)社が付くことが発表されて、おなじみの「555カラー」が誕生。より充実したチーム体制で1993年シーズンに臨むことになりましたが、一方でフル参戦はまたもお預けとなり、インプレッサWRXがすでに日本で発売されたことと併せ、BC5オーナー としては、レガシィRSではタイトルを争わないことと、レガシィの引退が差し迫ってきたことに一抹の寂しさを覚えたことも書き添えておきましょう。