デビュー当時を振り返って
スバル360は1958(昭和33)年春に発売以来、”国民車”として多くの人たちに愛され、1966(昭和41)年には軽乗用車メーカー5社が市場にエントリーして激烈な競争が演じられた中でも、そのシェアは40.6%に達していた。しかし、1967(昭和42)年になると、強力な対抗車ホンダN360が発売されたことをきっかけに、従来からスバル360をファミリーカーに位置づけ、チェンジレス・チェンジを貫いてきた当社も、ついにモデルチェンジを決意した。
この開発に着手したのは1965(昭和40)年6月、技術者たちはすでに次世代のミニカーづくりに意欲を燃やしていた。当初、スタイルはスバル360とほとんど同じ形だったが、途中から計画を一新、大きくイメージチェンジすることになった。機構的には、スバル360の弱点を抜本的に改めることに主眼が置かれた。 昭和30年代前半は、まだそういった乗用車がなかったため、その生みの苦しみは大きかったがそれでもマイペースで進められた。しかし昭和40年代に入ると、あらゆるタイプの車がスタイル的にも性能的にも出揃ってきた。その時点でより以上の車を作らなくてはならないという条件があるわけで、技術者たちはスバル360当時に劣らぬ苦労をしいられた。
一番の苦心点は足回りで、乗り心地を良くし、しかも操縦性、安定性のベストポイントをつかむために、数多くの実験と設計改善が繰り返し行なわれた。また、ユニットのパネルを大きくし、結合部を簡易化して作りやすく、しかも軽量化しようというのが重点項目だったが、これらと居住性の向上、セダン的なモデリングとの調和なども苦労した。
エンジンも一般の性能アップに合わせて新設計されたが、当時の最高速を重視する考え方に迎合せず、低速性能、つまりねばりのある使いやすさや加速性能にポイントが置かれた。
安全性と耐久性の向上については特に注意を払った。過酷な条件のもとに耐久走行試験を行った車は20台以上、衝突試験も前、後面からも何台もぶつけ、不具合な部分がわかれば直し、さらに確認する。こうした試験の繰り返しによって、安全性や耐久性に確信の持てる車になっていった。
こうして生まれた、空冷2サイクル356cc、30ps、重量445kgの軽乗用車は「スバルR-2」と命名され、1969(昭和44)年7月18日にデビューした。このスバルR-2の発売は、軽乗用車市場に旋風を巻き起こした。11年間、同一モデルを貫いてきたスバル360の変貌に対する期待感が強く、8月は発売半月で7912台と快調の出足。発売時在庫5600台はすぐ底をつき、車両供給不足が深刻になるsほどだった。また、同年12月には1万4875台の軽乗用車月販記録を樹立した。
受け継がれる伝統
理論を学び、実践を積み上げて築き上げるクルマづくりの信念と開発姿勢は、スバル360、スバル1000、スバルR-2の時代から途絶えることなく、今もスバルの技術的伝統として脈々と受け継がれている。徹底して機能性を追求し、走りと積極安全を、さらに高い次元へ、より高い次元へと飽くなき追求を続ける。それがスバルの伝統なのである。